『木漏れ日に溶けるは優しき心』
古き良き名残をとどめる町並みに、低く篭ったエンジン音が鳴り響く。
さして広くはない通りを、空から降り注ぐ陽光に照らされ、駆ける一台のバス。
やがて、幾らか走るそのうちに、行く手に見える標識を置いただけの停留所。
バスは小さな軋みを辺りに響かせ、徐々に速度を落としていくと、その身を停留所へと寄せて横たえる。
僅かな間を置き、前方のドアが空気の抜ける小気味良い音と共に開くと、そこから降りてきたのは、手にボストンバッグを提げた女性が唯一人だけだった。
「……やっと着いたか」
艶やかな黒髪を首の後ろで束ね、鋭い印象を持つ瞳が特徴的なその女性―――御神美沙斗は、足音も立てず地に降り立つと、小さなため息と共に自分にしか聞こえない程の声で呟いた。
香港から成田まで飛行機で五時間弱。
成田から電車で一時間半。
そこからさらにバスに揺られること三十分。
合計所要時間、約七時間という長旅は、いかに美沙斗と言えどもそれなりの疲れを伴うらしい。
背から聞こえてくるバスの走り去る音。
それを耳にしながら、美沙斗は辺りに佇む家々―――その町並みに目を向ける。
古めかしい木造の家が立ち並ぶこの町は、美沙斗が裏の世界に身を落とす以前までを過ごしていた、思い出の残る場所。
―――すなわち、御神宗家の存在していた地。
美沙斗は微かな感慨を胸に、およそ三ヶ月ぶりに訪れた町並みを眺めていたが、すぐに気を取り直すと、手に提げたバッグを一度持ち直し、静かに歩みを進め始めた。
それからしばしの時を経て、美沙斗が訪れたのは、町外れにある雑木林に囲まれた小さな寺。
年月の刻みに因るものなのか、老朽化の著しい門をくぐると、正面に見えるのは、こぢんまりとしていながらもそれなりに立派な造りの本堂。
美沙斗はそちらへ向かい、整備された石畳の上を歩いていくと、その手前で左へ九十度方向転換。
そのまま本堂の脇を通って、途中石畳が途絶えた所からは、地に敷き詰められた砂利を踏み鳴らし、さらに奥へと進んで行く。
歩み進めて行ったその先は本堂の裏手。
そこには木漏れ日に照らし出され、僅か十数基の墓が身を寄せ合うように並んでいた。
その間を縫い歩き、一番奥に立つ墓石の前で美沙斗は足を止める。
『御神家之墓』と刻み込まれたその墓石を正面に向き直ると、バッグを傍らに置き、停留所からここまで来る道すがらに買った、花と線香を墓前に供える。
続いて、顔の前で手を合わせ、軽く目を閉じ、祈りを捧げる美沙斗。
僅かな時を於いて、ゆっくりと瞼を開くと、
「お久しぶりです、静馬さん」
今では決まり文句になりつつある挨拶に、小さな微笑みを添える。
そして、以前訪れてから今までにあった色々な出来事を、静馬へ語り聞かせていく。
それは、仕事の話であったり、はたまた高町家に帰ってきた時に起こった出来事だったり。
寺を囲む木立から流れる鳥の囀りと、美沙斗の語る声だけが辺りの音を支配し、二人きりの優しく静かな時が流れていく。
普段は言葉少なな美沙斗だが、この時ばかりは自然と口数も増え、その表情はまるで恋する乙女の様に輝き、彼女の美しさをいつにも増して引き出していた。
美沙斗が静馬を訪ねてからどのくらい経った頃だろう。
ふいに、彼女の背後から砂利を踏み締める、二つの足音が重なり聞こえて来た。
「……あれ? 母さん」
「美沙斗さん、お久しぶりです」
美沙斗が語り掛けていた言葉を止め、肩越しに背後を振り向くと同時に聞こえて来たその声。
そこにあったのは、こちらへ向かいゆっくりと歩み来る最愛の娘と甥っ子の姿だった。
「美由希に恭也……。どうしたんだい、こんな所で?」
美沙斗はその場に立ち上がると、振り返り二人に歩み寄っていく。
「母さんこそどうしたの? 確かこっちに戻って来るの、もう少し後になるって言ってなかったっけ?」
「ああ、実は思ったより早く仕事が片付いてね。……久しぶりに戻って来たから、まず最初に静馬さんに挨拶してから伺おうかと思ってたんだけど………………?……」
美沙斗の言葉が半ばで途切れ、その顔に訝しげな表情が浮かび上がる。
その原因を作ったのは他ならぬ、恭也と美由希の二人だった。
二人は何がおかしいのか、クスクスと小さな笑い声を上げ、美沙斗を眺めている。
「どうしたんだい、二人共? 突然笑い出して。…………何かおかしなことでも言ったかな?」
二人が突然笑い出したことに心当たりの無い美沙斗は、自分が何か妙なことを口走ってしまったのかと勘繰るが、それは続いて喋りだした美由希に否定されてしまう。
「だって母さんったら、まるで他人の家にお邪魔するみたいな言い方するんだもん。……高町の家は今はもう母さんの家でもあるんだよ」
「そーですよ、美沙斗さん。それにそんな言い方してたら、この間みたいにまた、かーさんに叱られちゃいますよ」
美由希に続いて恭也にも指摘され、美沙斗はその表情を少し自嘲めいたものへと変えていく。
「……そーだね。……わたしも駄目だな。二人に、特に美由希に言われてるようじゃね」
「母さん、それってどういう意味?」
美沙斗の台詞に美由希は口を尖らかせ、母の顔を恨みがましく睨みつける。
「深い意味は無いよ」
言葉と共に自然と零れる笑顔。
この笑顔も、二人が深く暗い裏の世界から表の世界へと引き戻してくれたからこそ、今こうして浮かべていられる。
美沙斗は口にはほとんど出さないものの、目の前に並ぶ二人に、特に恭也には多大な感謝の気持ちを抱いていた。
自らを救い出してくれただけでなく、娘の美由希に生涯で一番の幸せな時を与えてくれようとしている。
同時にそれは母である美沙斗にとっても幸せな時なのだから……。
「……あと一月くらいか……」
「……はい」
「そう考えると、本当にもう少しな気がするね」
唐突に思い出したように漏らした美沙斗の呟きに恭也が頷き答え、それを耳にした美由希が言葉を続ける。
「そー言えば、父さんにはもう報告したのかい?」
「ううん。だからこうやって恭ちゃんと二人で来たんだよ。そしたら、ちょうど母さんと鉢合わせたって訳」
「……そうか。だったら三人で一緒にしようか。……わたしもまだ報告は済ませてないんだ」
「そーですね。静馬さんもきっとその方が喜んでくれると思います」
「……でも、もしかしたら父さん拗ねちゃってるかもしれないね。
母さんに報告してから大分経っちゃってるし、他の皆にはもうすませた後だから、一番最後になっちゃったこと」
「確かにそうかもしれないね。
美由希のこと、自分の娘だってことを差し引いても一番可愛がってたのは静馬さんだったからね」
「……それは悪い事をしちゃいましたね」
「過ぎたことを言ってもしょうがないさ。
……ちゃんと相手も一緒に来てるんだからそれで良しとしてもらわないと」
そう言って、美沙斗は恭也の肩に軽く手を乗せる。
「えへへ、そーだね。……それじゃ、皆で父さんに報告しよっか」
美由希の言葉に美沙斗と恭也は頷くと、三人は静馬の墓前に並んで立つ。
そして、それぞれが目を閉じると、静馬に語り掛けていく……。
(……父さん。わたし今度ね、恭ちゃんと結婚することにしたんだ。父さんも知ってるよね、恭ちゃん。
えーっと、でも、恭ちゃんじゃ分かんないかな? ……うーん、お兄ちゃん?
……ああ、そうだ。不破恭也さんって言えば分かるかな?
わたしね、小さい頃からずっと恭ちゃんのこと大好きだったんだよ。だから、わたし、今すごく幸せなんだ。
母さんは賛成してくれたんだよ。……父さんももちろん賛成してくれるよね。……反対なんてしないよね?
……反対するんだったら、わたし父さんのこと嫌いになっちゃうかもしれないなぁ。)
(……こんにちは、静馬さん。
実はこの度、娘さん―――美由希と結婚することになりました。
それなのに挨拶が遅れてしまって申し訳ありません。
不束者ですが、美由希を必ず幸せにしてみせますので、どうか結婚を許してください。)
(……静馬さん、先程伝えていなかった重要な報告が一つあります。
私たちの愛娘、美由希が結婚することになりました。……相手はあの恭也です。
あの頃はまだ小さかったけど、今ではどこから見ても立派な青年。……わたしは二人の結婚、許しました。
報告は電話口からでしたけど、二人が真剣に考えた結果なんだってことが伝わってきましたから。
それに、恭也ならきっと美由希を幸せにしてくれるって信じてますから……。)
三人の言葉が静馬に届いたかどうか。
それを知る由はないが、少なくとも反対を受けるようなことだけはなかったようである。
三人は静馬への報告が終わると、閉じていた目をゆっくりと開き、それぞれ顔を見合わせ、微笑み合った。
風が緩やかに吹き過ぎ、垂れた髪を微かに揺らす。
それに伴い、辺りに生い茂る木の葉が、小さなざわめきを漏らす。
―――音も立てず流れていく幻想的な時。
そんな時に終わりを告げたのは、美由希の唇から何気なく零れ出た言葉だった。
「ねぇ、母さんは出られるの? 結婚式」
「……ああ、もちろんだよ。
もし仕事が入ったとしても、放り出してこっちに戻ってくるよ。娘の花嫁姿を見れないなんて、絶対に嫌だからね」
「そんなことして大丈夫なんですか? 美沙斗さん」
「大丈夫だよ。……多分ね。
まあ、仮にそれが原因でクビになったとしても―――」
美沙斗はここで一度言葉を切ると、悪戯な笑みをその顔に映し出して、
「―――恭也が頑張ってわたしのことも面倒見てくれるだろうしね」
「あー、そうだね。恭ちゃんならきっと面倒みてくれるよ。うんうん」
「………………」
自分の顔を見つめ、嬉しそうに笑みを浮かべる、一月後には義理の母となる人物と、無責任にも微笑み頷く婚約者。
つっけんどんな態度を取る訳にも、かと言って、ドンと来いと言えるほど収入の面で充実している訳でもない恭也は、結局何も言えないでただ押し黙っていた。
「よーし、父さんに報告も済んだし、これから家に戻ろっか。……母さんもそれでいいよね?」
「ああ、いいよ。………………ほら、恭也。何してるんだい」
「恭ちゃん、早く来ないと置いてくよ」
「……え? …………あっ、……待ってくださいよ、美沙斗さん。……それに美由希も」
先程から黙ったまま何事か考え込んでいた恭也は、美沙斗と美由希、二人の声に我に返ると、先に歩いていってしまった母娘に追いつくべく、小さく駆け出していく。
離れて伸びていた三つの影。
それらはやがて、その色を紅に変え始めた陽の光に照らされて、一つの大きな影へその姿を変えていく。
僅かな時の流れの後の、母娘と甥、三人の繋がりを表すように……。