『child & adult』 ―前編―
コンコン。
冷気と静寂に充たされた、さざなみ寮二階の廊下に小さく響くノックの音。
そして、広がるしばしの沈黙。
ノックに応えて開くはずのドアは中々開かない。
手に持ったマグカップから立ち上る湯気はユラユラと揺らめき、辺りには中に満ちたコーヒーの香りが仄かに漂う。
マグカップ片手にドアの前に立つその人物も、さすがに少しばかり焦れはじめ、再度左の手をドアに近づけたその時。
突然、思い出したかのように外へ向けて開くドア。
「……誰だ?」
上げた手を慌てて引っ込めるのとほぼ同時に、開いたドアの隙間から部屋の主が誰何の声を伴って、のそりと顔を覗かせた。
「……耕介か。何かあたしに用か?」
その部屋の主―――仁村真雪は、ドアの隙間を塞ぐように立っている長身の男性―――槙原耕介の姿を目に止めて、不機嫌な声色を隠そうともせず尋ねた。
「差し入れ。……入ってもいい?」
手に持ったコーヒー入りのマグカップを、真雪の目に映るように掲げ持つと、真雪とは正反対、にこやかな優しい笑みを浮べて問い掛ける。
「……ああ」
素っ気無い返事をして、ドアを開けたまま、踵を返し戻っていく真雪。
その後を追うように、耕介は部屋の中へ入ると、後ろ手にドアを閉める。
パタン、とドアの閉まるその音を最後に、またも辺りを静寂が支配する。
聞こえる音といえば、部屋を暖めるためにつけているエアコンの微かな駆動音だけ。
そのエアコンのおかげで部屋の中は廊下のように寒くはないが、換気もせず閉め切っているせいかどことなく空気が悪い気がする。
さらには、部屋の中は散らかり放題で、床には数え切れないほどの紙くずや、漫画の資料なのか、雑誌などが足の踏み場もないほどに散乱していた。
隣の部屋―――知佳の部屋からも物音は全く聞こえてこない。
今、二階にはこの二人しかいないはずなのだから、当然ではあるが。
知佳も含め、他の二階の住人たちはリビングに集まって、話題沸騰中のテレビドラマに夢中になっていることだろう。
この寮で唯一人と言っていいほど、そういったものにあまり興味のない薫は、ただいまお風呂の真っ最中だったりする。
真雪は床に散らばった物を気にも留めず、蹴散らかしながら歩いていくと、机の前に置かれた椅子にドカッと腰を降ろす。
「真雪。これ、ここに置いとくから」
床に散らばった物の隙間を何とか辿り、真雪のそばまでやってきた耕介は、同じように散らかり放題の机の上に小さなスペースを見付けて、カップを置いた。
「……ああ」
机の上に置かれたカップに一瞬だけ視線を送ると、またも素っ気無い返事をして、目の前に置かれた描き掛けの原稿に視線を落とす。
その手には既にペンが握られてはいるが、全くといっていいほど原稿の上を走る気配がみられない。
時折、思い立ったかのように、ペンを握る指先に力が篭り、その先端が原稿に触れそうになるが、それはいつも触れる直前でその動きを止めてしまう。
原稿に触れたかと思っても、それはペンの背で、遅々として進まない苛立ちを紛らわすかのように、トントンと机を叩くだけ。
「真雪。早く飲まないと冷めちゃうよ」
先程から堂々巡りしている真雪のその行動を遮るように、傍らで見つめていた耕介が声を掛ける。
「……ああ、分かってる」
それにも真雪は気のない返事を返すだけで、苛立ちが増していっているのか、ペンの机を打ち鳴らす間隔が徐々に狭まっていく。
それからも何度か耕介は声を掛けるが、真雪は相も変わらず、気の無い返事を返すばかり。
その言葉の内には次第に怒気が見え隠れするようになり、それに気付いているのかいないのか、それでも耕介は声を掛けるのを止めようとはしなかった。
―――そして、
「……ああ、そうだ。真雪、今度の日曜日にでもどっか出掛けない?
毎日机に向かってるのもいいけど、あまり根を詰め過ぎると良くないからさ。
気分転換にどうかな? スケートでも。運動不足の解消にもなるし。
隣町のスケート場がリニューアルオープンしたって、この間みなみちゃんが言ってたんだよ。
どう、行ってみない? ……………………って、真雪?」
耕介が話を終え、窓の外へ向けていた視線を戻すと、最初に目に付いたのは小刻みに震える真雪の腕だった。
その震えは刹那に激しさを増し出し、腕の先、掌に握られたペンからはギリギリと悲鳴にも似た、軋みが聞こえてくる。
そして、開き掛けた耕介の口から言葉が発せられるより一瞬早く、ペンから漏れる軋みが一際大きく部屋に響いたその時―――。
「……うっせー……」
「……え?」
―――遂に真雪の怒りが爆発した。
「だぁああああああぁぁぁ!! うっせー、つってんだよっ!
さっきから人が大人しく聞いてれば、どーでもいいことをペチャクチャペチャクチャ!
あたしはこの原稿を明後日までに仕上げなきゃなんねーんだ!
仮にこれが片付いたとしても、来週末までに仕上げなきゃなんねーヤツもまだ残ってんだ!
こんな状態で日曜のことなんか考えてられるかっ!!」
そこまでを怒濤のごとく捲くし立てると、乱れた息に肩を上下に揺らし、傍らに佇む耕介へ冷ややかな視線を送る。
「……それに比べておまえはいいよな。
何にも考えずに寮の掃除、皆の分の洗濯、食事の用意。それだけしてりゃどこからも文句なんか出てこないんだからよ。
おまえもあたしの連れなんだから、少しは気を利かせてくれりゃいいのに……。
……それなのに、毎日毎日現れて邪魔ばっかしに来やがって。
ただでさえこっちはスランプ気味で苛ついてるってーのに。………………なぁ、邪魔だから早く出てってくれねーか?」
「…………………………」
「出てけ、つってんだよっ!!!」
反論もせず、だけど何か物言いたげな様子で黙っている耕介に、苛立ちを募らせた真雪の発した怒気篭りの絶叫。
耕介はそれを受けてなお言葉を返すでもなく、数瞬、真雪の顔を見つめていたが、結局何も言わないまま、静かに部屋を後にする。
「……ごめん」
立ち去り際、机に向かう背中ヘたった一言、その言葉を残して。
―――耕介のいなくなった、部屋の中。
背越しに聞こえた、ドアを閉める微かな音に押されるように、引き出しに仕舞っていた煙草の箱を取り出す真雪。
馴れた手つきで一本引っ張り出すと、口にくわえ、胸ポケットから出したライターで火を灯す。
息を吸う度紅く染まる煙草の先を、何とはなしに見つめた真雪の瞳からは、胸に内に隠れた感情を読み取る事はかなわなかった。
―――壁一枚隔てた部屋の外。
今出てきたばかり、固く冷たく閉ざされたドアに背を預ける耕介。
「……この分じゃ、当分先になりそーだな……」
ため息交じりの吐息に乗せて、他の誰にも聞こえない、小さな小さな呟きを漏らす。
ポケットに捻じ込んだ、右の手に力を込めて……。